はじめに

会社を辞めた理由や経緯を赤裸々に書きなぐる

こんにちは、小舟(こぶね)です。

今日は、新卒で入社した会社を5年で辞めた理由について、思っていることをつらつらと書き連ねました。

他の記事のように、誰かの役に立つことを目的としているというより、単純に自分がどんな人間かを振り返る意味合いが強いです。

それでもいいという方のみ、お読みください。

※うつに関する具体的なエピソードもあり、暗い話です。苦手な方はご注意ください。
※赤裸々に書きすぎて恥ずかしいこと言っちゃってる気がします……ほんとスミマセン(謎に謝る)。

29歳、会社を辞めて2年弱の今思うこと

自分のあり方に名前なんてなくてもいいけれど、社会的存在としてあえて名前をつけるならば、「フリーランス」がしっくりくる気がする。
フリーランスは、「個人の技能を提供し、その対価として金銭を得て、生活の糧とする」働き方だ。
個人事業主であっても、法人であっても「フリーランス」だ。

ふとフリーランスの意味が気になり、ネットで調べてみた。
語源は中世ヨーロッパにまで遡り、王や貴族が戦争のときに契約する槍騎兵で、まだどことも契約していない(=どこにも所属していない)槍騎兵を「freelance」と呼んだことが始まりらしい。

私はよくも悪くも、どこにいても居心地の悪さを感じてしまう性分だ。
好奇心旺盛な方だし、色々挑戦する。一度やり始めるととことんこだわるので、それなりに結果も残す。
だけど、その場所やそこにいる人たちに縛られるのが、どうにも我慢できない。
私にとってはどこかで息抜きが必要なのだが、会社員ではそれが叶わなかった。
だから、根無し草のように生きていたいといつも思う。

会社で参加する研修には、面白くてためになるものと、こういってはなんだがあまり聞く価値のない研修もある。上司が会社命令で研修講師をしている場合、そもそもやる気がないことも少なくない。
そんなとき、私の本能的な感覚では、聞き手は話が自分の人生にとって価値がないと判断した時点で、席を立って別の生産的なことに時間を費やすべきだと思う。もしくは、その場で眠って体力温存するかだ。
眠るのは失礼だという意見も一理あるが、私は自分がセミナー講師をしていたときも、聞き手が眠るのは特に気にならなかった。
セミナーによっては、前半でどうしても基本的な知識の復習や大枠の説明が必要な場合もあり、詳しい聞き手にとってはつまらない内容であることも多い。
そういう聞き手は、前半は寝てくれて構わない。後半の事例検討に入ってももし聞き手が寝ているなら、私の力不足か聞き手がよほど疲労困憊しているかのどちらかだ。
どちらにせよ、眠りたいなら自己責任で眠ればいいと思う。

とまあ、こんな私の考えを会社員時代は同僚や上司に話した。
「言っていることは筋が通っている。だが現実そうもいかない。大人になれ」
頭ごなしに怒る上司でなかったのは、本当に幸運だったと思う。
ただ、どれだけ好意的な反応であっても、会社員であればこれが当然である。
私も納得した。世の中そういうものだと。社会人として、自分も大人とやらになってみようと。
5年はそれが成功していた。
だが、5年経つ頃、どうにもがまんがきかなくなった。
「大多数に合わせることが、組織として機能するために効果的なのはわかる。だが結局は、それは個人の自由や意思を組織のためにねじ曲げることなのではないか?」
こんな違和感が常に心の中にはりつき、つきまとってくるようになった。

あるとき、懇親会で騒いでいる最中に、「潮時かな」という気持ちがふと浮かんだ。
だけど、せっかく選んで入った会社だ。
このとき、私は自分の素直な気持ちを無視した。
思えばこれが、最初の誤りだったと思う。

自分の気持ちに蓋をするため、私はそれまで以上に仕事に没頭し始めた。
私は、自分の「至らなさ」を痛感して、死ぬ気で努力するときの、あの燃え立つような感覚が好きだ。
中毒といってもいいかもしれない。
だから、「できないもの」「自分の未熟さを痛感させてくれるもの」が目の前にあれば、自分は組織に居続けるだろうと考えた。
そして、新しいプロジェクトにも加わった。

だが、結局うまくはいかなかった。
仕事の量や、体調不良も重なった。
けれど根本には、組織で働くことそのものへの拒絶反応があったと思う。
会社はとても好きだった。
大企業ではないが、理念と社員の人柄、会社風土に感銘を受け、新卒で第一志望で入った会社だった。
実際、退職前に他の企業から声をかけてもらい面接に出向いたが、何も心惹かれるものがなかった。
辞めたとはいえ、自分にとっては世界一の会社だったと今でも思っている。

だけど、当時は限界だった。
色々な違和感が募り、肉体的にも精神的にも無理をし過ぎた結果、うつ病になった。
なんの前触れもなく、突然悪夢にさいなまれ始めた。
それも、ふだん見る悪夢とは明らかに違う。
夜中に、家族が死ぬ夢や自分が自殺する夢、想像だにしないようなグロテスクな夢で何度も目が覚め、眠りが浅くなり、ついには一睡もできずに明け方を迎える始末。
バランスを崩し一気に転がり落ちるようだった。
そのときは、自分の状態や自分が何に違和感を覚えているのか、どうすべきかといったことが全く見えなくなっていた。
暗闇の中で険しい現実だけが突き付けられ、焦燥感と絶望感しかなかった。
動機や息切れで、長く地下鉄に乗ることもできない。
誰かに見張られているような恐怖感でドアの外を確認する行動が止められない。
駅のホームに滑り込む電車を見て、洗剤を見て、割れたコップの破片を見て、尖ったシャープペンシルの先を見て、とにかくすべてが自殺の誘惑につながる。

症状が重い人と比べるとまだまだ軽い方だという自覚はあったが、悪夢のような毎日だった。
そして、2か月過ぎたころに、行動に移そうとした。
苦痛のない自殺方法を調べると、首吊りで喉仏ではなく頸動脈を一気に圧迫するのが一番よさそうだった。
失敗したくないので、おすすめのロープを調べると、知恵袋で似たような質問があり、回答されている。
また、2ちゃんねるの掲示板などで「ぶら下がり運動器を使うといい」「ロープを切る強力なハサミもあった方がいい」などの情報を入手。
ハイパーベンチレーションという素潜りのときの呼吸法で意識を朦朧とさせるといいらしい。
どうせ夜寝付けないので、呼吸法を練習した。
そして、アマゾンで全てカートに入れて清算する直前に、ふと「辞めればいいのか」と思った。

なぜ、その瞬間にそう思ったのかわからない。
なぜ、その瞬間まで一度もその発想にならなかったのかもわからない。
うつ症状とは不思議なものだ。
体験してみて思うのが、本当に「病気」だということ。
肉体の病気やケガでも、手足が動かなくなったり、機能が正常に働かなくなる。
うつ症状もそれと全く同じだ。
思考や判断、感情が機能不全になり、自分では全くコントロールできず、正常な働きをしなくなる。
落ち込んでいる自分に追い打ちをかける思考や判断が自動でわき起こる。
人間はたいていの傷つきや落ち込みに対しては自己治癒で回復できるが、それができないどころか、さらに追い詰めてしまう。
そういうのが、うつ症状なんだと思う。
自分ではメンタルは強い方だと勝手に思っていたので、衝撃的だったが、いい経験でもあったと今では思っている。

拙い文章で書き殴ったが、自分はこういう人間で、今ここにいるんだと書き残しておきたかった。
もしこの文章を読んだ人が、今自分の人生の道に迷っているなら、「こんな人間もいるんだよ」という事実がその人の参考になればそんな幸せなことはない。
私は自分が悩んでいたとき、インターネットでブログやたくさんの記事を読みあさった。
そして、「様々な人生があること」「様々な働き方があること」そのものが、自分にとっての救いになった。
ああ、もっと自由でいいじゃないかと。
とらわれたり、怯えたり、型にはまったりする必要はないじゃないか、と。
どこででも、何をしていても、人間は幸せになれるんだと。
そう教えてもらった気がする。

自分は立派な生き方をしているわけではない。
挫折も体験した。欠点もたくさんある。
でも今は、自分なりのやり方で、それなりに楽しく生きている。

いつか終わりがくるそのときまで、幸せな毎日が続くだろうと思えることが、今の自分にとっての「幸せ」だ。